事例紹介

2025年3月18日

愛媛県今治市/大神洋輔さん(33)

 東京のITベンチャーの創業メンバーだった大神洋輔さん(33)は、29歳のときに突然、漁師を志し、瀬戸内海の島へ移住。カリスマ漁師と呼ばれ、あまたの一流料理店と取引をする藤本純一さんの下で修業をしている。都会のビジネスパーソンから一転、自然と向き合う「すごく厳しい」仕事に苦闘しながらも、日々務めを果たし続ける大神さん。その理由とは?

ITベンチャーから漁師への転身を決意

子供のころから動物が好きで、特にさかなに興味がありました。高校進学で水産高校に入学を希望しましたが、両親は猛反対。水産高校を出た後のビジョンがなかったので、両親の意見はもっともでした。

 結局、福岡市内の普通科の高校に進学し、野球に明け暮れた末に一浪で東京の明治大学経営学部に進学しました。福岡県の学生寮に入り、そこで知り合った早稲田大学の学生と意気投合し、将来は一緒に起業しようと約束をしました。起業を目指したのは建築設計会社を経営していた父の影響もあります。建築設計会社を営みながら、5人の子どもを育てるために毎朝午前4時に起きてコツコツと仕事をしていました。そんな父の背中を見て、自分も努力を惜しまず、立派な経営者になろうと思うようになりました。

 卒業後4-5年は企業に入って経験を積みたいと就職活動をしました。その中でインターンをしたPR会社の仕事に魅力を感じました。開発された企業の商品が、メディアで宣伝され、世の中で認知されていく過程の裏にはPR会社の存在があると知りました。「自分が担当した商品をヒットさせてみたい」と東京都内のPR会社に就職しました。

 寝具メーカーや商業施設などのPRを担当。イベントの企画提案やメディアの取材誘致活動をしながら、ビジネスをする上での知識をたくさん身に付けました。

 一方で、就職後も起業を目指す友人とは定期的に会ってビジネスモデルや資金調達について検討を続けました。そして、29歳のとき一緒に会社を立ち上げました。事業内容はファッション業界向けに在庫管理や販売分析できるシステムをつくることでした。経営面ではそれなりに順調でやりがいは感じていたものの、1年ほど経って、心の底から楽しめていない自分に気が付きました。悩む姿を見ていた妻に散歩に誘われ、「本当にやりたいことは何?」と問いかけられました。「そうだなあ……」と人生を振り返り、さかなが好きだったことを思い出しました。見るのも、食べるのも、触るのも好きでした。まさに原点回帰で、今こそ、漁師になろうと思い立ちました。

東京から瀬戸内の島へ

 PR会社時代の先輩に三重県で真鯛の養殖をされている知り合いがいて、紹介してもらい、1か月間、体験させてもらいました。漁業をやってみて、自分が思っているものなのかどうか確かめるためでしたが、魚を見たり、触れたり、心が躍る日々でした。海で過ごすのも楽しい時間でした。好きなことをしてお金になるのなら、それ以上の喜びはありません。

実際に受け入れてくれる職場を探している中で、愛媛県今治市の大島で漁業をされている藤本純一さんの存在を知りました。獲ったさかなは群を抜いておいしく、全国の飲食店と取引があるカリスマ漁師です。訪問して仕事の説明を受けましたが、論理的でわかりやすく、経営者の目線で「瀬戸内のおいしいさかなを世界に広めたい」というビジョンをもって、仕事に取り組まれていました。「この人の下で働きたい」と胸が高鳴り、弟子入りを志願。受け入れてもらえました。

想像以上に厳しかった漁師の仕事

 漁師の仕事は正直に言って、すごく厳しいです。夜の海に投げ出されたり、ローラーに巻き込まれたりしたら命はありません。常に緊張感がある上に忙しい。漁に出るのは午後5時から6時にかけて。港に戻るのは夜中です。そこから前日に収穫し水槽に入れていたさかなの神経を締めます。終了するのは明け方。ある程度睡眠を取って、出航の前に今度は締めた魚を梱包し、飲食店に発送します。

 休日も何か仕事があれば、連絡が来るので十分に休めることはあまりありません。それでも、疲れを忘れさせてくれるのが瀬戸内の自然です。出航するときに見る夕焼けは素晴らしく、海が凪いでいるときの船はとても気持ちがいい。夜は星が美しく、流れ星も見られます。何よりの癒しは家族との暮らしです。現在、妻は、岐阜県の実家で家業を手伝いながら、1歳の子どもを育てていますが、毎月、母子で大島を訪れ、1週間ほど一家3人で過ごします。

カリスマ漁師に学び、独立を目指す

 常に純一さんの仕事を見て勉強しています。魚を獲る網も自身で独自のものをつくっています。漁は網次第で獲れる量がまったく違います。海は常に変化していて、同じ場所で底引き網をしても、まったく再現性はありません。しかし、純一さんは天気や潮の流れ、時間帯によって、目視するだけで海の状態を予測しています。

獲れた魚は、いけすで半日から1日休ませてストレスを抜きます。それから水槽から取り出したさかなの脳天を一瞬で突きます。その後ワイヤーを通して神経を締め、エラから血を抜き、氷で冷やし込みます。こうすることで鮮度が保たれます。特に脳天を一瞬で突けるかどうかが味に影響を与えるのですが、純一さんの的中率はとても高く、魚の味はすごくクリアです。自分もやり方を真似てみるのですが、今はまだ少し雑味が残ります。そんな純一さんの魚は引く手あまたで、ミシュラン三ツ星や飲食店検索サイトで人気の店に直販しています。しかも、ただ売るだけではありません。すごいと思えるのは、獲れたさかなの個体を見て、どの店に送れば美味しく調理してくれるかを判断して売り先を決めていることです。

 純一さんは自分にとってのロールモデルです。底引き網で収穫したさかなを国内外に販売できる技術と信用を身に付け、数年後の独立を目指しています。今はどんなに厳しくても、ずっと抱いてきた起業への思いがあるからがんばれます。もう後戻りはできません。自分の獲ったさかなを買いたいと言ってもらえる「指名買い」をされる漁師を目指しています。